アメリカにおけるアロパシー医学 VS ホメオパシー医学の歴史(その1)

米国医師会は一八六〇年から二〇世紀初頭にかけて、その倫理規定に、会員はホメオパシー診療を行う医師に相談してはならず、ホメオパスを受診している患者を治療することも許されない、という条項を設けており、あからさまにホメオパシー医学を敵対視していましたが、アメリカにおけるアロパシー医学VSホメオパシー医学の歴史を振り返ってみたいと思います。以下、『医療殺戮』(面影橋出版)からの引用です。

アロパシ医学ーVSホメオパシー医学

 米国医師会は、設立当初からアロパシー医学を治療の基本とした。アロパシーは公認の医科大学で訓練を受けた医師が行う治療で、外科手術と投薬に極端に依存する治療法であった。そして、医学会が指定する治療法、あるいは標準的で正統な治療法に従わない医学は、どのような医学に対しても、敵意をあらわした。

 19世紀の医学校ではホメオパシー医学の方が広く普及していたが、アロパシー学派はホメオパシーに対して強力な敵対活動を開始した。米国では医学団体がホメオパシー医学の信用を傷つけ、撲滅する運動を猛烈に展開し続けている。

 ホメオパシーの治療は種々の臨床試験の結果、関節炎の治療で一般によく処方されている薬と同様の効果があり、しかも有害な副作用を引き起こさないという点でそれよりもはるかに勝っていることが明らかになっている。しかしホメオパシー治療の業績は、歴史からは黙殺され続けてきた。また。たとえそれについて述べられることがあっても、事実を歪曲されて語られたのである。

 ホメオパシーの有効性を示す典型的な事件は、英国で1854年にコレラが大流行したときに起こった。記録によると、この大流行の期間中、ホメオパシー病院では死亡率がわずか16.4%だったのに対し、正統派医学の病院では50%であった。しかしこの記録はロンドン市の衛生局によって故意に隠蔽された。

 19世紀のあいだに、ホメオパシー医学は米国とヨーロッパで急速に広まった。1847年、米国医師会が設立された当時、ホメオパシーの医者の人数は米国医師会の構成メンバーであるアロパシー医者の二倍以上いた。しかしホメオパシーの医者たちは各自が独立しており、実際、個人開業医が多かったため、アロパシー医学からの一斉攻撃に対して十分な準備ができなかった。

 米国医師会は初めからアロパシー学派という単なる同業者の集まった圧力団体であり、競合相手のホメオパシー派の医師たちを妨害し、廃業に追い込むという目的のために組織されたことは明かであった。米国医師会は1900年代の初めにはこの目的を達成し、おかげで米国の医療は暗黒時代に突入した。

 米国医師会のアロパシー医学の特徴は、自分たちの治療方法のみが唯一効果のある治療法であるという神話をでっちあげ、絶えず大衆に宣伝して売り込む点にある。この悪質な神話はみるみる成長して新たな怪物を作り上げた。それは「医師は絶対に間違うことのない完全な人間であり、医師の判断を決して疑ってはいけない」という神話をでっちあげ、絶えず大衆に宣伝して売り込む点にある。ましてや、医師の過失についてとやかくいうなど、もってのほかである。

 イヴァン・イリッチが『医学のネメシス……健康の没収』(1976年)という衝撃的な著書で指摘しているように、アロパシー医学の有効性など、愚にも付かない神話に過ぎないことは明かである。そればかりか、今や医者たちが、今までになかった新たな病気を生み出している。それは、イリッチが「医原性の」と定義したさまざまな疾患からなる現代の疫病「医原病」である。

 医原病は今や米国国民全体に蔓延していると、イリッチは述べている。また、イリッチはこの「医原病」の定義を「医師が患者への体への医学的介入をほどこすことによって引き起こされた病気」とし、一般的によく見られるものを三つのタイプに分類している。第一に医者によって引き起こされる「臨床的医原病」、第二に医学・産業複合体の意図的な策謀が生み出す「社会的医原病」、そして第三に人々の生きる意欲を奪う「文化性医原病」の三つである。